2008年02月15日

拍子をとることとは

週始めには伊豆へ旅行。
もちろん旅行先ではまったく雪のなごりはなかった。
しかし、帰宅すると我が家周辺ではまだ現在もあちこち掻き集めた雪の山が残っている。まだまだ寒い。
 
 さて、ある曲の練習で、「拍子を数えて」と伝えて演奏してもらいますが、どうしても拍子がくいちがって、何時の間にか同じ曲が途中から自然に(いや不自然に)「カノン」?になってしまいます。

 「一生懸命に拍子をとっているのですが、おかしいですね。」とおっしゃる。
 「いえ、拍子をとる、つまり拍子を『数えて』と言っているのですが」
 よくよく確かめると、ある重大な誤解があることに気づきました。



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2008年02月09日

練習も最終段階に近い

今朝、胃の内視鏡検査を受けた。最近のカメラは鼻から入れるのが増えているらしい。これは初体験だった。確かにこれだと「オエッ」とならい。とりあえず深刻なものは見つからなかったので一安心。
 さて、その後午前中に自宅でギターレッスン。昨夜から出来なかった食事をしたあと、午後に、もうすぐ発表の機会が近づいたギターグループのレッスンに行った。
「もうこれで決定!このまま稽古してください!」と宣言。
 練習にはいろいろな段階があります。
 まずは音をとる。つまり指示された音を出せるようにし、拍子やそれに関する発音や消音のタイミングを理解する。そして、それがいつでも高い確率で再現できるようにする練習です。
 次にこれ以降順番はいろいろだが、強弱を決める。
 そして、同じ各音価をどのような長さで(ここでは例えば同じ四分音符でも歌い方には長短があるということ)歌うのか、音と音の間はどのぐらい空けるのか等々を決める。
 そしてテンポはどのぐらいで、あるいはどのような変化が必要か等々。
 練習を単に音をとることと考えるのはいけない。
 たくさんの検討することや、なすべきこと(きりがないが限られた期間のなかでなにをやるべきかを決めます)を決めることができたら、あとはそれを「いつでもそのとおりできるように」練習するのです。ただ闇雲に急いで回数を稼ぐのはいけません。中身のない練習(失礼。練習とは言いにくいので)はせっかく決めたそれらのことの再現確率を低くしてしまいます(練習の初期段階に戻してしまう)。
 回数より中身!中身のある練習を回数できればさらに良し!と思ってください。これが最終段階の練習です。
 否応なく期限はやってきます。そのなかでこの段階がどのレベルまで達することが出来るかの差が演奏に大きく表れるのです。

 さて帰宅して夕食まで再びギターレッスン。
 外は雪が降り始めた。また積もりそうだ。まだ先日の雪が消えずに残っているのに・・・。
 明日の交通が心配。
 
 
 
 
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2008年02月08日

合同発表会の準備中

節分の日からよく雪が降る、また明日も雪のようだ。
このところ、私が指導しているオカリナサークル有志参加による合同発表会の準備に忙しい。参加者が選曲したものに、できるだけ演奏効果を上げるための編曲をほどこし、その楽譜製作にかなり時間を割いている。急がなければ!
全部で26曲なのだから、大掛かりなものになりそうだ。当日が楽しみだ。
 今夜はその後教室用ギターの弦を交換。そして生徒さんに依頼された楽曲のコード付けを大急ぎで終えた。
 さて早めに寝るとするか。明日は朝から胃カメラの検診なのだ。
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2007年12月02日

また「タイ」について

階名または音名でメロディーを歌うとき、タイがあると、その分伸ばして歌いますね。それはそれで良いとはいえます。

 しかし、タイが付くとそれが無根拠に混乱して上手く歌えないのなら、タイで結ばれた後ろの音符(以下「後ろの音符」といいます)も階名で歌いましょう。

 タイがあれば、「必ず」その両側の音符が別々に書かれています。アタリマエ!でも、ひょっとしたら合計した長さで書ける場合にもわざわざそうしていませんね。それは両方の音符、特に後ろの音符もチャンと歌えという指示なのです。

 それではタイが付かない?そうでしょうか?
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2007年11月25日

内向きな選曲から伝える選曲へ

先日の、ある一般向けコンサートで気になることが。

 ある出演者、いったいこの方は、何のためにこの曲を選曲したのか、誰のために選曲しているのだろうか、さらに言うといったい本当はいったい誰のために演奏したのか、と疑問に思って気にかかったのです。このままではまだまだ残念な結果が続くのではと思ってしまうのです。もっと真の実力を発揮して欲しいと願っているのですが・・・。

 自分の担当楽器の関係団体、関係組織に向かってのアピールのためなのか、それらの代表としての重責からか、あるいは、その中での自己の地位や経歴のためなのか、その関係者のためにその曲をやや義務的にやむを得ず選曲したように思えてなりません。もしそうでないにしても、演奏結果としてあえて内向きな選曲であった、という感想を抱かざるを得ません。

 内向きな選曲は、それなりの実力を持ちながらも、それ以上にプレッシャーと恐怖心に苛まれ、その楽曲の音列、音形も表現しきれない、だからその曲のムードやその曲が述べようとしていることも、いっこうに伝わらないのでそれと知れる。

 考えてほしいのは、単に扱う楽曲の難易度でその人の演奏評価が決まるのでなく、楽曲のもつ意味とそれに関する演奏者の解釈や考え、そして意思が人々により深く伝わり、訴えられたかが、その人の演奏評価になる、と言うこと。

 演奏者は伝える喜びを持って演奏して欲しい。その喜びを味わうために日々研鑽を積んでいるのではないでしょうか。
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2007年11月22日

月の砂漠はいかが?

名曲「月の砂漠」。好きな方が多いようです。
オカリナやマンドリンを学ぶ方に楽譜をさしあげると大変喜ばれます。

 ところが、この曲、まちがって歌う(演奏する)方がけっこう多いのです。 もう一度楽譜を見てください。4分の4拍子において、1拍、つまり4分音符に、「8分音符二つ」が割り当てられたリズムと、「付点8分音符と16分音符」が割り当てられたリズムが混在しています。しかもそれが隣あって存在しています(3拍めと4拍めにあります。)。
 
 作曲者があえてわざわざ、両方のリズムを書き分けて使用していることから、この二つのリズムは区別して歌うべきなのですね。

 ところが多くの方が、全て付点8分音符と16分音符のリズムで気分良く歌ってしまいます。歌いなれた方には抵抗があるかもしれませんし、大変難しいことかもしれませんが、是非区別して歌ってみてください。

 するとどうでしょう!単に陰鬱なスローマーチ、まるで葬送行進曲か戦時中の軍歌のような曲が、なんとスケールの大きい、素晴らしいロマンティック歌曲になるのです。
 これこそが作曲者のねらいなのですね。
 
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2007年11月19日

クレメンタインはどこから?

いとしのクレメンタイン、
「先生、なんだかこの曲おかしい!伴奏が三拍子に合いませんけどー!!」

ハッピー・バースデイ、
「先生、なんだかこの曲おかしい!コード伴奏が合いませんけどー!!」

 よくよくその意見を聞いてみると、あー、やっぱり。
三拍子の1拍目から歌っているのですねー。
 それ3拍目から歌うのでーす。
 
 それにしても上手く歌うもんですねー。歌えてしまうものなのですねー。
 さて、懸命に抵抗感をふり払ってもらい、3拍目からスタートしてみて「ぜんぜん感じが違う!本格的!」(?)と大いに驚いて感動してもらいました。
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2007年10月17日

初級のテキストを上級者にも課すこと

楽器にかなり経験のある方に、初級テキストをやってもらいました。

こんなの簡単!?

初級者にとっては、これも演奏できないで悪戦苦闘したもの、それはつまり、その音が出せるか、そのリズムがとれるか、といったところが課題の目的でしたね。
その点については確かに今は簡単かもしれません。
しかし、当時と同じレベルの考えにもどって、ハイ出来ました、自分は上手くなったなー、と得意がりますか?今更こんなの、バカにしないで欲しい、と憤慨しますか?

 私がこの課題を与えた理由は、今の貴方に、この教材を与えられて、自分にとっての課題を見つけて、設けて欲しいからなのです。そのために音を得る、リズムをとる困難を省ける課題として、初級教材を与えたのです。

 初級のころ、とりあえず当時の一つの目的をクリアーしていたからといって、今の貴方ならどうかということ、つまり、貴方に必要なもっと気づいて欲しい点が山ほどあるのです。本当は、私に指摘されるまでもなく、ご自分で気づくのが経験者、上級者と言われる所以だと思うのです。

 これは楽曲においても同じ、一度やった曲はもう出来たものと思わず、何度でも取り組んでみてください。その度に新しい発見や課題を見つけられれば、貴方もその楽曲によって成長させてもらっていることに気づくはずです。間違っても、この曲をやっつけてやる、なんて思わないでしょう。
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2007年10月07日

音符や休符の長さを発生させる・・・

音符の長さはそれぞれ、全音符(1)、2分音符(全音符の1/2)、4分音符(全音符の1/4)、8分音符(全音符の1/8)、16分音符(全音符の1/16)、・・・の様に相対的に表現されます。つまり、ある一つの音符の長さがどの位かの表現は単独ではできません。

 たとえば、拍子が決まり、テンポが決まれば、ある音符の長さが数値上は決まることになります。しかし、我々は、デジタル・メトロノームのように、1拍が1分間に何拍だから1拍は何分の何秒にあたり、その半分は幾分の幾秒で、・・・と音符の長さをいちいち計算しながら歌ったり演奏したりできるでしょうか。

 一つの音符の長さを鳴らし、その音符が済んだら次の音符の長さを「このぐらい」と鳴らし、そして次の音符の長さは・・・というように、一つ一つの音符や休符の長さを順次継ぎ足しながら瞬時に計算しながら演奏するのは不可能です。機械(MIDI)ですら前もって一音符一音符数値入力したデータを保存しておき再生するわけで、そのような膨大なデータを記憶することは我々には過酷なこと、いや不可能です。しかもそれを呼び起こして演奏するなどこれまた不可能です。

 それでは、拍子記号で指定された基準音符で拍子カウントという「目盛り」を設けたベルトコンベアを想定してください。実は、ある決定したテンポで目の前を流れるそのベルト上の目盛りに従ってタイミングよく発音(音符)したり、音を止め(休符)たりして、そこにそれぞれの音符や休符の長さを発生させているのが我々の演奏なのです。

posted by ひかちゃん at 00:58| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月27日

トレモロについて

トレモロ奏法について、

 1)マンドリン奏法=(イコール)トレモロと考えるのは止めましょう。
 マンドリンの基本奏法は、ダウン・ストロークまたはアップストロークによる一音単弾弦(ピッキングと呼ぶ方が多い)によるもの。その滑らかな連続奏がトレモロ。トレモロはマンドリン奏法の内の一つ。
 
 2)持続音(この意味が解りません、おそらく長音のことと思われます)=(イコール)トレモロ奏法と考えるのは止めましょう。基本単弾弦奏法でも音をカットしなければ長音《持続音》です。トレモロはむしろ長音ではなく、デジタル的連打音です。滑らかに連打されることで長音として認識させているのです。
 
 3)トレモロを持続音、ましてや、単弾弦をスタッカートと言うのはとんでもない間違いです。奏法の種類とアーティキュレーションを混同しています。
 どちらの奏法かにかかわらず、次の音に滑らかにつながればレガート(スラー)ですし、短く切って演奏すればスタッカートです。トレモロ奏法でもスタッカートはあるのです。
 
 4)長い音符はトレモロにする、とうい決まりはありません。あらかじめ決められる場合もあれば、演奏者が検討する場合もあります。
 
 5)トレモロでないとクレッシェンド等が出来ない?そんなことはありません!
 テーマの直接的展開・変奏・装飾、伴奏部の工夫や、アンサンブルなら他のパートの工夫で可能です。そうでないとピアノ奏者やギタリストは長い音があるとしょっちゅうトレモロをしなければなりません。 

posted by ひかちゃん at 22:38| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月22日

スタッカートですか?アクセントですか?

あるフレーズを私が歌ったあとで解説しました。

「この音は短めに・・」
「スタッカートですね?」
エッ!

「この音は強調するといい・・」
「アクセントですね?」
ナンデッ!

 なんでも記号にしなければ演奏できないのですか?
それじゃこのフレーズあなたも歌ってみて。ほらそう歌うでしょ!

 なぜあなたが自然に歌えたように演奏しないで、とって付けたような記号処理に変換してしまうのですか?この場合はその必要はないでしょう。記号で表現すると音処理という技能に意識がいってしまい、違和感を生じて歌えなくなることもあるのです。記号記入をするまでもなく、当然このフレーズはこう歌われるということを私は歌って聴いてもらい、そのうえで解説しているのです。

 技能処理から→音楽として歌う、を、わざわざ逆行して演奏しづらくすることはないでしょう。
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2007年09月20日

音符に付いた記号は再現に必要なのです。

スタッカート、アクセント、スラー・・・これらが音符についていると、その音符を記号どおりに処理するのはもちろんです。

 しかし、それらの記号が付けられたのは、作者(作曲、編曲者)が歌ったとおり再現して欲しいためなのです。

 だから、再現者(演奏者)は、それらの記号が付いていたら、そのフレーズが作者の希望としてどのように歌われるのかを、自分でも歌わなければなりません。

 フレーズとは、メロディーだけでなく、ある種のリズムパターンや和音連結(終止形)、曲の構成上の意味までが含まれます。

 単に音符の記号処理ではいけません。その記号がフレーズのなかでどういう存在意味をもち、フレーズのなかでどう作用をし、フレーズにどのような抑揚や表情をもたらすかを歌って理解する必要があります。

 するとどうでしょう。それらの記号には単純でない様々な歌い方の可能性が存在し、気が付けば、それらの記号を無理やり処理して忙しく弾きまくる感覚でなく、必然的にそのように歌われる心地よさに到達することでしょう。

 
posted by ひかちゃん at 22:30| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月01日

休止符は演奏しないのですか?

「休止符があったら演奏しない。」というのは間違いです。

 休止符はその時間決められた「無音を演じる。」つまり演奏するのです。

 時間の経過のなかに、「発音する、しない。」が配置されて音楽ができている。それを演奏するのです。だからつまり、発音処置同様、休止符のための適切な処置(演奏作業)が必要なわけです。

 勝手に休止符をすっ飛ばして弾いたり、いい加減な時間演奏(処置)をしないで本当に演奏を休んでしまったりしてはいけません。

 休止符の「休」の文字がいけないのです。文字の意味に囚われず、音楽上の意味を理解するようにしてください。

 休止符を「音符」に対するものとして「無音符」と言うべきだ、と言う意見があります。私も賛成です。
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2007年06月30日

教則本は教えてくれる

教則本をやらずに好きな曲を弾きたい、それはそれで本人が個人的に楽しむためならけっこうだと思います。たしかに、長時間と暗中模索の苦労をいとわなければその目的を自分なりに達成できることでしょう。

 しかし、どこかで誰かに伝えたい、他の演奏者と共によりよい音楽を奏でたいう目的のところに身をおいたとします。そうはいきません。あるところまでは前述のように何とか喘ぎながらやれた、またそれを自負してはみるものの、残念ながらいずれその限界はやってきます。
 
 教則本あるいは教則課題は、大先輩(年齢ではありません)の考え、音楽への思いのこもったものです。そしてそれを理解し、同じ思いを持つ指導者に就くことは、単にどう演奏するか、演奏できるか出来ないかだけではなく、音楽への、素直さ、学ぶ姿勢、謙虚さ等、音楽に必要な心も知らず知らずのうちに身につけさせてくれることなのです。教則本はつまらんかもしれません、しかし省略してしまっては大切なことを得るチャンスを逃してしまいます。

 もし貴方が他の人のために、他の人と共に音楽を奏でたい、他の人のために音楽を伝えたい、つまり演奏者たらんと思ったら、教則本と教師からあなたに必要な多くのことを学ぶことをお勧めします。

 

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2007年06月28日

約束した目的は検証と確認を忘れずに!

親睦を目的とする会は別ですが、演奏団体、合奏団を結団する際には、必ずその活動目的と方針を掲げているはずですね。皆が共通して目指す目的です。そのときは熱く誓いあった目的です。理想を掲げ、結束し「いざ!」と感動とともに出発したはずです。


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2007年06月27日

弾けさえすれば問題なし?

私はよく、アマチュアアンサンブルで、良い演奏が出来るには気持ちが通じ合うことが大切、コミュニケーションが大切、とお話しする。そんな折、「プロだとたとえお互い仲たがいしていても、気に入らなくてもなんとか演奏はこなしてしまうけれど・・」と言ったりします。

 しかし、決してそれは肯定的な(さすがプロ!という)意味では無いのです。たしかに演奏は小手先で無難にこなすことでしょうが、ある一定の時間、それはお互い忍耐の時間となるのです。満足など得られませんし、良い演奏などとうてい望むことなどできないのです。こんなつらい時間はないのです。演奏が近づくと気が重くなり、演奏が終わってその結果にいらだってしまいます。「やるんじゃなかた!」と後悔するのです。やるせない気分になるのです。

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2007年06月18日

rit.はつねにブレーキ?

曲の中にrit.やその類の記号をみると、何が何でもブレーキをかけてゆっくりする、と思い込んでいる方が多いのですね。「徐々に遅くなって」という意味のrit.ですが、ブレーキをかける方法だけがその意味を実現する方法でしょうか?その方法だけですと、曲によって、あるいは部分によっては、どうしても違和感のあるrit.になってしまう場合があります。当然合奏ではそこでギクシャクしてバラバラになり無理やりなんとかしてみたものの、抵抗感は消えません。

 走っている車のスピードを遅くするには、ブレーキをかけます。力を加えて遅くする方法ですね。では、ゴルフのパターで打ったボールはどうでしょう。直接カップを狙わない場合、次にカップを狙える位置でボールが止まるように打ちますね。ボールにはブレーキをかけられませんよ!でも徐々に遅くなってついにその場に止まります。力を加えたのは打球の瞬間だけ。あとは自然運動に任せています。平坦な路、自転車でこぐことを止めて「身を任せていると」ゆっくりなって行きます。ブレーキはかけなくても!

 放置していても勢いが弱まっていくことで徐々に遅くなっていくことがあることを思い起こしてください。自然の中に存在するrit.の運動です。
 上り坂の上に向かってボールを転がしてみると、やはりrit.がかかります。こんどはかなり急なrit.・・etc.

 このように、実は私達は日常身のまわりで、多くの自然とのかかわりでrit.を体験しているはずです。人間はそれを察知できます。またそれをイメージも出来ます。だから、先ほどのゴルフや、自転車の運転が出来るのです。音楽では、演奏する人、聴く人が同じ気持ちでrit.を表現し味わうことができるのです。

 今あなたが演奏している曲のそのrit.はどんなrit.が相応しいか考えてみましょう。



 
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2007年06月04日

「自分」が音楽の発散を妨げていませんか?

「自分を『無』にして」と言うと、まるで自分を蔑ろにされたかのようにとらえて「自由が無い、縛られるのはいやだ。」と言い放つ方がいるでしょう。

 ひょっとして、「コ難しくてシチ面倒くさい音楽」から逃げたい解放されたい、という気持ちがあるのではないですか。言葉を足してみると、「『自分』に自由が無い、『自分』が縛られるのはいやだ。」と私には聞えてならないのです。自由に音楽をやりたいというのは「我すなわち音楽なり。」という境地に達した神や仙人のごとき大巨匠の言葉なら理解もできますが、我々にとっては大変難しいことで、人によっては目標であり、またある人によってはまさに夢なのです。

 さて、音楽はだれもが持っている情操なのであって、それを発散させないのは、皮肉にも「自分」という殻を頑固にまとっているからと考えてみてください。自意識による部分的で表面的な演技が邪魔で音楽が素直に伝わらない演奏、逆にテレや表現の躊躇による平坦で伝達力を感じない演奏などがその現象です。

 音楽から自分を解放するのでなく、音楽を自分から解放させて発散させたいものです。そういった意味での、「自分を『無』にする」と言うことなのです。
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2007年05月31日

リズムアンサンブルの心地よさを考える(2)自分のテンポどりを無くす

さて、前回の続き。2.の問題解決にまいりましょう。

 では、前回同様に、私の指揮動作で演奏してください。あれあれ、すばらしい!ピッタリですね。しかも心地よい!実は皆さんがそれぞれ自分自身のテンポどりを無くしてくれたのでうまくいった訳なのです。

 テンポが合わないと、みなさんそれぞれがテンポを「正確に」しようと懸命にテンポをとりますね。だれそれが「遅れる」かれそれが「走る」など指摘されると、なおいっそう無我夢中で各自「正確な」テンポをとろうとするのです。ところが、個人個人それぞれ「正確」だと思ってとっているテンポが常に他人と「同一テンポ」だったとしたら、マグレもいいいところ。それに気味が悪い!不可能です。だから当然合わない!

 全員がそれぞれ「自分は正確に!」と思いこんでいるが、しかしその実体は、全体としてはバラバラな各々勝手なテンポで同時に演奏しようと、無理なことを強引にやっているにすぎないのです。正確と思うテンポならば、「リズムは合うはず」ということはないのです。

 指揮動作を見て演奏することとは、先ほどのような「それぞれ」を無くすことができて、メンバーが同一テンポで演奏ができるというこなのです。指揮者が居ない場合は、個人個人が自分のテンポどりをやめて、全員で一つのテンポをとるように意思疎通することです。

 テンポが揺れても、全員で同様に揺れれば、そしてそこに全員の意思があるならば素晴らしいことなのです。前回の1.が解決していれば、問題なく楽しくアンサンブルできるのです。だから、rit.やaccel.のようなテンポの変容や、楽譜の表記にはない味わいとしてのテンポの揺らぎといった「アゴーギク」が可能なのです。


 
 
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2007年05月30日

リズムアンサンブルの心地よさを考える(1)指揮動作から学ぶ

比較的技能の高いメンバーによるアンサンブルでも、どうもリズムが合わない、ということが起こります。個人個人は十分にリズムの構造を理解していて演奏も出来るのに、アンサンブルで心地よく合わない、という現象です。メンバー個人個人違いはあるとして原因は三つあると思います。

1.リズムのもととなるカウントはできるのにそのカウントのとり方に問題がある。

2.リズムのもととなるカウントはできるのにそのテンポのとり方に問題がある。

3.上記1.2.の両方に問題がある。

それぞれが解決できれば安心で楽しいリズムアンサンブルができることでしょう。

今後1.と2.について述べたいと思います。

今日はまず、1.のカウントのとり方について。


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posted by ひかちゃん at 19:07| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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