2007年09月22日

スタッカートですか?アクセントですか?

あるフレーズを私が歌ったあとで解説しました。

「この音は短めに・・」
「スタッカートですね?」
エッ!

「この音は強調するといい・・」
「アクセントですね?」
ナンデッ!

 なんでも記号にしなければ演奏できないのですか?
それじゃこのフレーズあなたも歌ってみて。ほらそう歌うでしょ!

 なぜあなたが自然に歌えたように演奏しないで、とって付けたような記号処理に変換してしまうのですか?この場合はその必要はないでしょう。記号で表現すると音処理という技能に意識がいってしまい、違和感を生じて歌えなくなることもあるのです。記号記入をするまでもなく、当然このフレーズはこう歌われるということを私は歌って聴いてもらい、そのうえで解説しているのです。

 技能処理から→音楽として歌う、を、わざわざ逆行して演奏しづらくすることはないでしょう。
posted by ひかちゃん at 12:26| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月20日

音符に付いた記号は再現に必要なのです。

スタッカート、アクセント、スラー・・・これらが音符についていると、その音符を記号どおりに処理するのはもちろんです。

 しかし、それらの記号が付けられたのは、作者(作曲、編曲者)が歌ったとおり再現して欲しいためなのです。

 だから、再現者(演奏者)は、それらの記号が付いていたら、そのフレーズが作者の希望としてどのように歌われるのかを、自分でも歌わなければなりません。

 フレーズとは、メロディーだけでなく、ある種のリズムパターンや和音連結(終止形)、曲の構成上の意味までが含まれます。

 単に音符の記号処理ではいけません。その記号がフレーズのなかでどういう存在意味をもち、フレーズのなかでどう作用をし、フレーズにどのような抑揚や表情をもたらすかを歌って理解する必要があります。

 するとどうでしょう。それらの記号には単純でない様々な歌い方の可能性が存在し、気が付けば、それらの記号を無理やり処理して忙しく弾きまくる感覚でなく、必然的にそのように歌われる心地よさに到達することでしょう。

 
posted by ひかちゃん at 22:30| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月01日

休止符は演奏しないのですか?

「休止符があったら演奏しない。」というのは間違いです。

 休止符はその時間決められた「無音を演じる。」つまり演奏するのです。

 時間の経過のなかに、「発音する、しない。」が配置されて音楽ができている。それを演奏するのです。だからつまり、発音処置同様、休止符のための適切な処置(演奏作業)が必要なわけです。

 勝手に休止符をすっ飛ばして弾いたり、いい加減な時間演奏(処置)をしないで本当に演奏を休んでしまったりしてはいけません。

 休止符の「休」の文字がいけないのです。文字の意味に囚われず、音楽上の意味を理解するようにしてください。

 休止符を「音符」に対するものとして「無音符」と言うべきだ、と言う意見があります。私も賛成です。
posted by ひかちゃん at 23:22| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月30日

教則本は教えてくれる

教則本をやらずに好きな曲を弾きたい、それはそれで本人が個人的に楽しむためならけっこうだと思います。たしかに、長時間と暗中模索の苦労をいとわなければその目的を自分なりに達成できることでしょう。

 しかし、どこかで誰かに伝えたい、他の演奏者と共によりよい音楽を奏でたいう目的のところに身をおいたとします。そうはいきません。あるところまでは前述のように何とか喘ぎながらやれた、またそれを自負してはみるものの、残念ながらいずれその限界はやってきます。
 
 教則本あるいは教則課題は、大先輩(年齢ではありません)の考え、音楽への思いのこもったものです。そしてそれを理解し、同じ思いを持つ指導者に就くことは、単にどう演奏するか、演奏できるか出来ないかだけではなく、音楽への、素直さ、学ぶ姿勢、謙虚さ等、音楽に必要な心も知らず知らずのうちに身につけさせてくれることなのです。教則本はつまらんかもしれません、しかし省略してしまっては大切なことを得るチャンスを逃してしまいます。

 もし貴方が他の人のために、他の人と共に音楽を奏でたい、他の人のために音楽を伝えたい、つまり演奏者たらんと思ったら、教則本と教師からあなたに必要な多くのことを学ぶことをお勧めします。

 

posted by ひかちゃん at 12:27| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月28日

約束した目的は検証と確認を忘れずに!

親睦を目的とする会は別ですが、演奏団体、合奏団を結団する際には、必ずその活動目的と方針を掲げているはずですね。皆が共通して目指す目的です。そのときは熱く誓いあった目的です。理想を掲げ、結束し「いざ!」と感動とともに出発したはずです。


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posted by ひかちゃん at 23:53| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月27日

弾けさえすれば問題なし?

私はよく、アマチュアアンサンブルで、良い演奏が出来るには気持ちが通じ合うことが大切、コミュニケーションが大切、とお話しする。そんな折、「プロだとたとえお互い仲たがいしていても、気に入らなくてもなんとか演奏はこなしてしまうけれど・・」と言ったりします。

 しかし、決してそれは肯定的な(さすがプロ!という)意味では無いのです。たしかに演奏は小手先で無難にこなすことでしょうが、ある一定の時間、それはお互い忍耐の時間となるのです。満足など得られませんし、良い演奏などとうてい望むことなどできないのです。こんなつらい時間はないのです。演奏が近づくと気が重くなり、演奏が終わってその結果にいらだってしまいます。「やるんじゃなかた!」と後悔するのです。やるせない気分になるのです。

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posted by ひかちゃん at 23:35| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月18日

rit.はつねにブレーキ?

曲の中にrit.やその類の記号をみると、何が何でもブレーキをかけてゆっくりする、と思い込んでいる方が多いのですね。「徐々に遅くなって」という意味のrit.ですが、ブレーキをかける方法だけがその意味を実現する方法でしょうか?その方法だけですと、曲によって、あるいは部分によっては、どうしても違和感のあるrit.になってしまう場合があります。当然合奏ではそこでギクシャクしてバラバラになり無理やりなんとかしてみたものの、抵抗感は消えません。

 走っている車のスピードを遅くするには、ブレーキをかけます。力を加えて遅くする方法ですね。では、ゴルフのパターで打ったボールはどうでしょう。直接カップを狙わない場合、次にカップを狙える位置でボールが止まるように打ちますね。ボールにはブレーキをかけられませんよ!でも徐々に遅くなってついにその場に止まります。力を加えたのは打球の瞬間だけ。あとは自然運動に任せています。平坦な路、自転車でこぐことを止めて「身を任せていると」ゆっくりなって行きます。ブレーキはかけなくても!

 放置していても勢いが弱まっていくことで徐々に遅くなっていくことがあることを思い起こしてください。自然の中に存在するrit.の運動です。
 上り坂の上に向かってボールを転がしてみると、やはりrit.がかかります。こんどはかなり急なrit.・・etc.

 このように、実は私達は日常身のまわりで、多くの自然とのかかわりでrit.を体験しているはずです。人間はそれを察知できます。またそれをイメージも出来ます。だから、先ほどのゴルフや、自転車の運転が出来るのです。音楽では、演奏する人、聴く人が同じ気持ちでrit.を表現し味わうことができるのです。

 今あなたが演奏している曲のそのrit.はどんなrit.が相応しいか考えてみましょう。



 
posted by ひかちゃん at 00:43| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月04日

「自分」が音楽の発散を妨げていませんか?

「自分を『無』にして」と言うと、まるで自分を蔑ろにされたかのようにとらえて「自由が無い、縛られるのはいやだ。」と言い放つ方がいるでしょう。

 ひょっとして、「コ難しくてシチ面倒くさい音楽」から逃げたい解放されたい、という気持ちがあるのではないですか。言葉を足してみると、「『自分』に自由が無い、『自分』が縛られるのはいやだ。」と私には聞えてならないのです。自由に音楽をやりたいというのは「我すなわち音楽なり。」という境地に達した神や仙人のごとき大巨匠の言葉なら理解もできますが、我々にとっては大変難しいことで、人によっては目標であり、またある人によってはまさに夢なのです。

 さて、音楽はだれもが持っている情操なのであって、それを発散させないのは、皮肉にも「自分」という殻を頑固にまとっているからと考えてみてください。自意識による部分的で表面的な演技が邪魔で音楽が素直に伝わらない演奏、逆にテレや表現の躊躇による平坦で伝達力を感じない演奏などがその現象です。

 音楽から自分を解放するのでなく、音楽を自分から解放させて発散させたいものです。そういった意味での、「自分を『無』にする」と言うことなのです。
posted by ひかちゃん at 01:17| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月31日

リズムアンサンブルの心地よさを考える(2)自分のテンポどりを無くす

さて、前回の続き。2.の問題解決にまいりましょう。

 では、前回同様に、私の指揮動作で演奏してください。あれあれ、すばらしい!ピッタリですね。しかも心地よい!実は皆さんがそれぞれ自分自身のテンポどりを無くしてくれたのでうまくいった訳なのです。

 テンポが合わないと、みなさんそれぞれがテンポを「正確に」しようと懸命にテンポをとりますね。だれそれが「遅れる」かれそれが「走る」など指摘されると、なおいっそう無我夢中で各自「正確な」テンポをとろうとするのです。ところが、個人個人それぞれ「正確」だと思ってとっているテンポが常に他人と「同一テンポ」だったとしたら、マグレもいいいところ。それに気味が悪い!不可能です。だから当然合わない!

 全員がそれぞれ「自分は正確に!」と思いこんでいるが、しかしその実体は、全体としてはバラバラな各々勝手なテンポで同時に演奏しようと、無理なことを強引にやっているにすぎないのです。正確と思うテンポならば、「リズムは合うはず」ということはないのです。

 指揮動作を見て演奏することとは、先ほどのような「それぞれ」を無くすことができて、メンバーが同一テンポで演奏ができるというこなのです。指揮者が居ない場合は、個人個人が自分のテンポどりをやめて、全員で一つのテンポをとるように意思疎通することです。

 テンポが揺れても、全員で同様に揺れれば、そしてそこに全員の意思があるならば素晴らしいことなのです。前回の1.が解決していれば、問題なく楽しくアンサンブルできるのです。だから、rit.やaccel.のようなテンポの変容や、楽譜の表記にはない味わいとしてのテンポの揺らぎといった「アゴーギク」が可能なのです。


 
 
posted by ひかちゃん at 23:41| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月30日

リズムアンサンブルの心地よさを考える(1)指揮動作から学ぶ

比較的技能の高いメンバーによるアンサンブルでも、どうもリズムが合わない、ということが起こります。個人個人は十分にリズムの構造を理解していて演奏も出来るのに、アンサンブルで心地よく合わない、という現象です。メンバー個人個人違いはあるとして原因は三つあると思います。

1.リズムのもととなるカウントはできるのにそのカウントのとり方に問題がある。

2.リズムのもととなるカウントはできるのにそのテンポのとり方に問題がある。

3.上記1.2.の両方に問題がある。

それぞれが解決できれば安心で楽しいリズムアンサンブルができることでしょう。

今後1.と2.について述べたいと思います。

今日はまず、1.のカウントのとり方について。


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posted by ひかちゃん at 19:07| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする